耳に滑り込むのは、新鮮な吸気を求めながら喘ぐように囁いた声。
甘くも辛くもなくて、熱くなりすぎた僕には歯痒い、声。
「・・これ、さぁ」
「・・・」
ごち、と合わせたままの額にゆるい頭突きをして。
でも、それすら甘いと思う僕は、次の言葉を莫迦みたいにじっと待つんだ。
がっちり抱え込んでしまったセンパイがこのまま僕に縋りついてくれはしないか。
色素の薄い首筋に這わせる唇が消えない痕を残すことだけは、許して欲しい。
そんなことを考えながら、じっと待っていた。
そして、待っていた僕に与えられたのは息を整えながらゆっくりと紡がれた、甘過ぎる言葉。
「・・ねぇ、オマエこれ、きょうの、デザートの、つもり・・・・?」
鼻先が触れ合ったままそう囁かれて、僕の方が蕩けた。
違うけど。
今日がとか、デザートとかがどうこうじゃなくて、ぜんぜん違うんですけど。
でも、もう、どうでもいい。
思わず回す腕に力を込めて引き寄せ、斜に咬ませた唇を深く貪る。
緩く結ばれた歯はもう僕の舌を拒まなかった。
その歯に削らせながら奥まで差し込めば、うねるような熱が舌先を痺れさせる。
それどころか今度はセンパイの舌が僕の口に入ってきて、その輪奈天の感触を最初はおずおずと、でもだんだん気持ちよくなって来て、好すぎて何が何だかわからなくなって上も下も全部舐めるように絡ませた。
下唇の少しつやつやした内側をなぞるように舐め、ちゅう と音を立てて吸う。
今度はセンパイの唇が僕をゆるく食んだ。
ふざけた音を立てて啄ばまれながら、一応これまでの経過と事情説明をするべきかと考えたけど、全く機能停止のアタマ、それでもある一部分、血が上って沸騰状態の部分ではもう全然別のことを僕は考え始めている。
もう、駄目です。 止まんない。
でも、駄目だ。 これ以上は。
自分では答えが出ないディレンマに嵌まる。
いくらなんでも、こんな状況でも、独りよがりはいけないと思った。
盛ったまま襲い掛かるようなどうぶつには成り下がるまい。
あと、なんとなく一度、センパイが今どんな顔しているのかが見たかったから。
身体を引くとふたりの唇からはみ出し縺れた舌に引いたのは、名残惜しそうな透明な糸。
乱れきったお互いの息は熱くて殊更に離れがたく、僕はセンパイを腕の中に閉じ込めたまま、センパイは黙って僕に抱かれるまま、ふたりとも暫らくの間まんじりともせずにいた。
体中の血を集める勢いで腰の奥が疼き出していて、我ながら純愛は何処と吐息に溜息が混じる。
いや、僕だって健康な成人男性なんだから、正常な反応だ。
きっと、センパイだって、そうだ。
だったらこれは、お伺いを立てるまでもなく、据え膳喰わぬはなんとやらって云うやつじゃないか。
ひとり勝手な答えを出した紳士じゃないほうの僕が臨戦態勢に入ろうとした瞬間、僕の腕の中からすっくと立ち上がったセンパイが云った。
「・・これ以上此処に居たら、オマエに何されるかわかんないから。 ・・帰る。」
ぅえええ??!?
心の中心で僕が叫ぶ。
身体の中心のボクも叫んだ。 たぶん。
僕は今、センパイの腕を掴んで離さずに、「止めるつもりはありません」と熱で掠れる声で宣言して、殴りつけてでも犯したい。
でも、それも、できそうになかった。
それをしてしまったら、僕はあまりの無成長ぶりに後悔するだろう。
子どもじみた所有欲も、苦く冷えた後悔も、もう充分すぎるほど味わった。
では僕は、どうすれば穏便にアナタを自分のものに出来るのか。
大義名分は、何だ?
押し退ける手は存外にあっさりとしたもので、欲情しなかったのかな と莫迦みたいなことを一瞬で考える自分こそ頭の中まで欲情して沸騰してどうかしてる。
「送ります」
センパイの後を追って、玄関へ。
「オレは、帰らないよ?」
後ろから声をかけると間髪入れずに返されたそれは、誰が聞いたってすこしズレた回答だった。
思わず、はぁ? と間抜けな声が出る。
「それとも、何? オマエ、付き合ってくれる?」
いきなりだ。云えるはずがない。
振り向いて笑みを浮かべたのは紛れもなく、男だ。
なのにとんでもなく色っぽい、だなんて。
「・・・今日ぐらい、誕生日くらいは、お共します・・」
それは、下戸の僕が、金輪際一滴たりともと誓った僕が、ひょいひょいと後について呑み屋に行ってしまうほどに。
センパイの目がきゅうと細まる。眉がきれいな弓を描く。
僕のつられ具合に悦んだのか、唇の端にはニヤッとした笑みすら浮かべて。
「じゃあ、好いところに連れてってあげちゃうかな。」
連れてってあげる と云われてうれしいと思ったらもうこれ、認めてしまえばいい。
「スイーツバーって知ってる?甘いもん喰いながら、酒が呑める処。」
「・・・」
うげぇ と顔に書いてあると、さぞ面白げに笑われた。
下戸だけど、甘いものが特別好きってわけでもないんで仕方ないじゃないですか。
その笑う顔を。
所有したい、守りたいと思ったって、もう、許して欲しい。
「お姐さんに教えてもらったんだ。 『甘い夜のとっておき』、だってよ。」
どうよ?好いでしょ? そういって窺うような上目遣いに僕はまた煽られる。
素早く伸ばした腕をセンパイに回して、お誘いのお礼も兼ねてもういちど。
ゴン
目も眩むばかりの(実際、眩んだ)好い音がして、唇が触れるより先にぶつかったのは、デコ・・・デコだ。
「・・・(ぐおおおおおおぉ い、痛ぇぇ・・)」
「・・オマエ、テンゾ、莫迦・・・この石頭・・」
いわゆる、それは、逆ギレ、です、センパイ、あ、アタマが、割れる・・
「・・もう、今日は、じゅうぶん食べたから。オレ。」
耳元で囁いて、こてんと預けられた銀の頭。
きっとぶつけた自分も痛くて、頭をゆるゆると擦り付けながら僕の肩で額を撫でている。
はらはらりと細い髪が頬や唇をくすぐるこの仕草に、匂いに、痛いのも忘れて嬉々として悩殺された。
「云っとくけどオレ、小食なのよ?」
「僕は・・食べ足りないんですけど」
「ああ、いくらテンゾウでもね、一度にたくさん食べると、おなか壊す。」
ぞわりと腹筋を、というかそれよりだいぶ下から撫で上げられて、その指は僕の顎先をくすぐって唇を辿り、身体の脇を滑り降りて、緩く持ち上がってしまった布の近辺をくるりと撫でた。
「それにオマエ、あたっても知らないよー」
体温が上がる。 止まんなく、なりますから。
喰っちゃいますよ、本当に。
欲情を気取られて、掠めるほどのキスを何度かもらって。
そのうちに、自ら食あたりを宣言するごちそうが可笑しくて、センパイの肩にあごを乗せたまま、僕は ぷ と吹き出した。
「あ、テンゾウ、失礼な」
センパイの、それでもうれしそうに、そしてあからさまに邪な笑顔を見たら、はっきり云ってこの人はとんでもない性悪なのだと――そんなの今更じゃなくてなんとなく気づいてたけど、認めたばかりのこの恋心の行く末に、僕は早々に頭を痛めることになるのだ。
ぐうの音も出ません。
ただ、これだけは、譲れません。
「・・今は、・・や、ヤマトで、お願いします・・」
駄目だ。
噛んだ。
駄目だ。
あたろうがなんだろうが。
喰いたい。
認めます。
恋をした。
もう。
それでいい。
それでいいから。
きれいなアナタ、どうか、いつか必ず僕のものに。