何度目
暫くの時間待ちぼうけを喰ったものの、無人の受付に人が戻ると自分の用件は数秒で済んでしまった。「はたけ様の退院手続きはすでにお済みになっております」。そう云って目の前の人間は手元のカルテに目を落としたまま、或いはわざとこちらを見ないようにしているのか無愛想極まりない。「お次の方、どうぞ」。仕方なくオレは列から離れ、正面の自動ドアを通って表に出た。裏手の調理室から風に乗って流れてくる気配と、遠慮なく目を射る西日。だいぶ陽が長くなったようだ。意識が戻ってから一週間、運び込まれてからの時間を加味すれば十日も経っているはずだから無理もない。今回も回復した視界にいの一番に飛び込んできたのは見慣れた病室の天井で、オレはいつものように「ああまた此処か」と動かない身体の求めるに従ってウトウトとしていた。しばらく経って、がらりと戸を開けて入ってきた看護師は意識の戻ったオレに驚き、医者先生を呼んできた。問診を受け、「何度目ですか」と軽口を叩かれたが身体が動かないので頭を掻くこともできず、そうしているうちに彼らは慣れた手つきですでに何本か刺さっていた管のうちのひとつを選び出して手に取り、云った。「また少し眠くなりますよ」。じきにオレは眠り、真夜中に目覚め、今度は云われた通りにわずかに動くようになった指先でボタンを押して人を呼び、生きるのに必要な補給を施され、また眠り、目覚め、眠り、目覚め、そんなことを繰り返してもうそろそろ身体の節々に錆が浮き始めるんじゃないだろうかと思ったところで、本日ようやく放免というわけだ。
病院の正面玄関を出たところには大きなプラタナスの木があり、その太い幹にもたれた「お連れ様」は腕組みでさも不機嫌そうな顔をしていた。こちらに気づいたテンゾウの眉根がひくりと歪む。そしてつかつかと歩み寄ったが早いがオレの襟首を掴み上げた。テンゾウの不機嫌の理由などは察するまでもなく、オレはされるがままにおとなしく俯き、服を掴み上げる拳を黙って見ていた。オレの後に会計を済ませた若いくのいちが、ちらとこちらを見遣り慌てた様子で目を逸らして通り過ぎてゆく。テンゾウは小さくため息を吐き、服から手を離した。「仕方がないでしょ、持って来られたのがこれだったんだから」。普段なら貌の半分を隠しているはずの覆面付きアンダーシャツは支給されず、退院用にと用意されたものはごく一般的な丸首のシャツ。運び込まれたときに着ていたものは切り裂けて血糊にまみれ、とっくのとうに塵箱行きだった。背を向けて歩き出そうとしていたテンゾウは一瞬立ち止まり、しかしこちらを見ずに云った。「見せられた方が困るんですよ」。こちらに何の悪気はなくとも、覆面忍者の素顔などは見せないに越したことはない、ということか。さきほど受付の人間を無愛想と断じたことをオレは少しだけ心で詫びた。「それに」テンゾウは続ける。「そう簡単に恋人の秘密を他人に見られたんじゃ、ボクだって困ります」。生きるか死ぬかの境にあって、戻ってきた自分を迎えるのがいつも通りのごくごく単純な悋気であることをオレは頼もしく思った。「一服させてよ」。差し出された箱から一本取ると、テンゾウも同じように一本抜き出し口に咥えた。「他に何か云うことは?」そう訊きながらオレは大きな掌が包む火に顔を寄せる。シリリと先端を焼く音を聞き、オレはゆっくりと最初の一服を含んだ。まだ不機嫌そうな顔をしているテンゾウは咥えたタバコを口からはずし、やがてまっすぐにオレの目を見た。「あなたが無事で何よりです」。清浄な身体に巡る快い毒。オレはにわかに眩暈を感じ、吐き出す煙に混じる吐息が、穏やかに熱を孕んだ。
2010/06/01
(何度でも聞きたい)
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