感傷外来



 ようやく手にした白いファイルをひらひらと振って水野を呼び、穂高は人差し指を天井に向けた。
 「ここじゃなくて上の階なんだ」
 エレベーターはフロアの隅にあった。手にしたファイルでぱたぱたとあおいで顔に風を送っている。去年から伸ばしっぱなしの前髪がそよぐ。わりと厚みのあるそれがカルテだということに水野が気がついたのは、四角い箱の扉がゆっくりと閉まってからだった。


 カルテを出して受付の目の前の椅子に腰を下ろした。
 「ここからが長いんだ」
 穂高は「悪ィね」と詫びの言葉を添えた。

 「別にいいよ。どうせひまだったし、気にしないで」
 「ならいいんだけど」

 予定がなかったのは事実だし、長く待つことも苦ではない。でも、たとえば「休みの日に会えてうれしい」とかそういうことでもなかった。
 「もう少しあっちいって座ろ」
 エレベーターにも診察室にもナースステーションにも近くない、かといって窓があるわけでもない半端な位置にある長椅子に移動して、水野はおもむろにカバンの中を探りはじめた。

 「おにぎり」
 「えっ」
 妙な沈黙が落ちる。
 「何?サンドイッチの気分だった?」
 「いやいやいや、そうじゃなくて」
 「持ってきたから食べよう」
 「まじで。俺にもくれんの?」
 「今度コーヒーでもおごって」

 おにぎりはラップに包まれていて海苔もきちんと巻いてある。手にふたつ、水野のひざの上にもふたつあった。母親が作るのとは違って、コンビニのとも違う。馬鹿にでかいおにぎりだった。

 「中身は梅おかかと焼きたらこ」
 「ええっ」
 穂高は目を丸くして驚いた。水野は特に得意げにすることもなく差し出したおにぎりを受け取れと促す。
 「せんぱいが握ったんだ」
 「おにぎりぐらい自分で作るよ」
 「すげーな」

 水野は事もなげに云ったが、そうだ、いつも学校には家から弁当を持ってくるような人なのだ。あの焦げていないきれいな黄色の玉子焼きもミニトマトもブロッコリーも、たぶん、きっと、自分で。

 ペットボトルのウーロン茶のキャップに噛みつき、回して開けた。歯が折れるよと呆れる水野におにぎり二つでいっぱいの右手を見せて、膝ではさんで開けると脚がカマっぽくなるから嫌じゃね、と説明して笑わせた。

 朝、宣言した通りの時間に穂高はやってきた。
 あの遅刻魔が約束通りの時間に。
 普段の通学に比べればまったく余裕のある時間帯ではあったが、今まで休みの日にこんなに早くから出かけたことはない。
 それどころか、穂高は乗るべき電車の時間も駅からのバスの時間も把握しているようだった。
 あの無計画な人間が「次の急行に乗るから」と云い、乗り換え駅のホームからすべり出ていく各駅停車をふたりで見送った。

 一年、いやもっと前か。
 その日は二人きりで学校帰りに映画を観るはずだった。なんだかんだで時間は上映最終回にギリギリ間に合うか間に合わないかになってしまって、それでもチケット売り場の前まで来たのに、穂高は終わる時間が遅いとかなんとか云い出した。今思えばあの映画はあまり観たくなかったんじゃないかと思う。
 そうこうしているうちにふたりとも腹が鳴り出した。飯を食い、ショッピングモールをぶらぶらして、「映画、観たかった?」と何度か聞かれたのだが「別に」と答えておいたという、そういうどうでもいいような顛末があった。
 その日の帰りの途中駅で、穂高は今日と同じように「次の急行に乗ろう」と云ったのだ。
 帰宅のラッシュで満員の急行電車だった。
 何度か目が合ううちにふと湧き上がった気持ちは、促すというよりも挑むようなそれに近かったと思う。
 自ら目を閉じ、互いにどうすべきかわかるように顎を少し上げ――。

 あの時に味わった不満と困惑と後悔の入り混じったような気持ちにまた襲われていた。

 「帰りたい?」

 おにぎりを頬張った穂高に顔を覗き込まれる。
 「いや別に。っていうか、なんか、ごめん」
 「こっちこそ、つきあわせちゃって」
 「それは別にいいんだけど」

 不満と困惑と後悔。
 それはそれがそれまで起こりえなかったことへの不満であり、起きたことを免れられなかったゆえの困惑、起こってしまったことへの後悔だ。

 「けど、なに?」

 結局、近づいた唇と唇は触れることなく終わった。
 ホームに着いた途端にその場に(待ち構えて?)いた亮や松本と鉢合わせてうやむやになったのだ。
 もちろん彼らのせいではないが、穂高のせいでもない。

 「めずらしいよね。今日みたいに穂高くんから誘うなんて」

 穂高はあきらめたような顔で笑っていた。

 「こうでもしないとついてくるっつって聞かねんだわ、うちの母ちゃん。姉ちゃんも」
 「ああ」そういうことか。
 「うん。なんか、なんだかなぁって。たまんねぇよな、実際」

 なんて云ったらバチあたるか。その呟きには返事をし損ねた。
 家族から大切にされているのは見ていてわかるし(親御さんはこの男に対して笑っちゃうほど過保護なのだ)、歳の離れたお姉さんとだって、ありえない仕打ちを受けてるわりには仲が良いようにみえる。それでも穂高が口にした「たまらなさ」は決してそれらとは相殺しあうものではない、ということだけがやけにはっきりとわかってしまった。感じたことのない感情に共感する奇妙さに水野は戸惑った。

 「待ってるあいだ暇だよね」

 あれ、と穂高が指さした先の天井に奇妙に動くものがあった。
 「見てるとおもしろい」
 受付のうしろの壁から天井を伝い移動していく四角い箱のようなものがレールに沿って緩やかに曲がり、最後は壁と天井の際のところへ吸い込まれていく。カルテが運ばれていくのだ。いい暇つぶしになる、と、穂高が云った。

 症状と経過。所見と処置。様々な今のすべてが、わかりづらい抽象のまま不透明な白いファイルに綴じ込まれ、他人から他人の手へ渡っていく。
 レールを伝って動くカルテは今、長い待ち時間のあいだに沈殿していく意識を薄く削ぎ取り間引くためにある。
 直視すると耐え難いものから優しく注意を逸らすためにある。
 浪費するかの如く零れ落ちるゆっくりした流れこそが時の速さなのだ。ここでは誰もがその時間に慣れることを強いられている。暇だと保留して過ごす時間。いつ終わるとも知れぬ人生の浪費。

 いくつもの棟を持つ白く四角い建物の中で、時はまるで閉塞したかのようにゆっくりと流れている。
 診断は誰にせかされることなくじっくりと下され、治療はあわてずに施され、病状はぼちぼちと改善し、或いは進行していく。
 カルテが来るのをじっと待つ。エレベーターがゆっくり進むのを待つ。診察を待つ。検査を待つ。検査結果を待つ。会計を。処方箋を。調剤を。次の来院日を。

 彼は。


 「さてと」

 穂高が立ち上がった。
 顔をあげると、最後のひと口を放り込んでもぞもぞとポケットを探っていた。指の間に挟んで取り出した小さな紙切れには電光掲示板とふたつ違いの数字が書かれていて、その紙片が整理券だとわかる。

 「食わねぇの?」

 視線は水野が手に持ったおにぎりに注がれていた。くすんだピンク色の焼きたらこがのぞいている。

 「食べるよ」
 そう答えて目を合わせたままかぶりつくと、穂高はうれしそうに破顔した。

 朝、片付けの済んだキッチンで考えを巡らせた。
 冷蔵庫から小さな容器を2つ取り出してひとつからたらこを片腹、もうひとつからは梅干を2粒取り出した。焼網が無いので仕方なくフライパンでころころさせて焼いたたらこは半分に切る。梅干は種を抜いて包丁で叩いてかつお節としょう油を少し。具をのせて飯を握る。海苔を巻いてラップで包む。ジャーの中に残っていた白飯をありったけ使い切って、満足して蓋を閉じた。

 すべてはバランスを保つためなのだ。
 不足を補い、過剰を切り捨て、均衡を保つ。
 暇をつぶし、ありったけの飯を握り、そうなるように努力している。

 電光掲示板の数字がひとつ消え、次の番号がゆっくりと点滅した。「んじゃ悪いけど待ってて」そう云ってポケットに手を突っ込んだまま背を丸めて診察室へ向かって歩き出した穂高が、ふと立ち止まり振り返った。

 「サンドイッチ気分だって、どうしてわかったの」
 「やっぱり」
 「ここの駅前の喫茶店、ボロいけどうまいんだ」
 「じゃあ帰りはそこで。ごちそうさま」
 「わりといいお値段なんだけど」
 「穂高くんの分、俺が出すから。ツナサンドでいいよね」

 水野がニヤリと笑った。穂高はツナサンドが苦手だ。











2013/07/15




(ゆっくりと そっと 君が手を添えて)















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