※アンコさんフタナリ注意








 風呂場には水色のナイロンタオルと、大きな海綿がふたつ並べて吊るしてある。
 俺は迷うことなく、自分の気に入りに手を伸ばした。
 珍しくこれだけは趣味の合った蜂蜜色のボディソープを泡立てて、ことさらにゆっくりと身体を洗う。居間から響く「ギャア」だの「ギエェ!」だの云う声は、女にしては凄みの効いた良い声だ。此処だけの話、俺はこの声は割と気に入っている。
 そう思いながら膝の辺りを洗っていたら、
「また出たわねぇぇオロチマーーン!!」
 ひときわ大きな絶叫が響き、続いて何やら割れたような不吉な音がした。
・・・ああ、今宵も一体今から何度ため息をつけば済むのか。

 30分、プラス多少の余韻を楽しむ時間も加味して(というよりは、興奮冷めやらないうちはたいそう危険なので)ゆっくりと風呂から戻ると、アンコは大振りなソファから身を乗り出し、食い入るようにテレビの画面を見つめていた。
 見れば、それはなんとも都合の悪い放送内容。職人の手で次々とケーキが仕上げられてゆく様子を舌なめずりしながら見つめる視線は蛇の如く、この眼もまた、俺がこの女を好ましく思う理由のひとつなのだが、今はただ、その目が俺の存在に気づいて時計を見、もう彼女の時間は終わったのだということを理解して欲しいと願うばかりだ。
 女の足元に散らばる、無残に叩き壊されたガラステーブルの破片はどう処理するべきか。
 無事にくつろぎの時間を確保するためにやらなければならないことの多さに、俺は辟易した。
「あぁ・・・ん? もうあがったのイビキ。ちょっと、これ見終わるまで待ってよ。あと、ごめーん、コレ、壊れちゃった」
 ペロリと舌を出して肩を竦め、上目遣いで俺を見る。
 この可愛らしい仕草がこの女の全てであるならば、かたいナイロンタオルでガシガシ身体を洗っているなんていう事実は想像すら難しいだろう。
 この表情はたまにしか見せないから好いのだ。ドン引きの空気が読めないことも、興奮すると器物を損壊する癖もすでにわかりきったことなので、文句を云うのも面倒だった。
 俺は無言でうなずいたが、すでに彼女の目は再びテレビに釘付けでこちらを見てもいない。
 仕方なく普段つけている皮の手袋を自室から持ち出して、ガラスの破片を拾う。それにしても、壊されたのがサッカー録画中のHDDや、テレビ本体でなかったのが不幸中の幸いか。片付け終わる頃にはこのオンナも風呂へ行くだろう。そうすれば俺はやっとくつろぎの時間を手に入れることができるだろう。さっさと終わらせよう。

 事の次第を説明するならば、今日、俺は紆余曲折を経て自宅のHDDを使用する権利を勝ち取ることが出来た。(自宅なのに、だ。)
 今日は一年に一度のドリームマッチ、雲の国の強豪チームと我が木の葉赤金剛の対戦だ。
「録画して何度も見るの!」と言い張るアニメ番組にテレビを譲って、俺はあとから録ったものを追いかけ再生で観る。ゴールシーンは何度でも巻き戻して堪能する。前向きに捉えれば、それはむしろ好都合だ。
 そして俺は今、そんな気たるべき興奮の時間を夢見つつ、せっせとガラスを拾っている。
「アンコ、足を上げろ」
 声をかけると、程よく筋肉のついて引き締まった白く美しい脚はすうと持ち上がり、腰にタオル一丁で這いつくばる俺の肩にどっかと乗せられた。
「いい眺めよ、イビキ」アンコが笑う。
 不覚にも、すこし興奮してしまったことがばれなかったのが、せめてもの救いだった。

 番組は途中だったがケーキが映らなくなるとすぐに飽きたらしく、アンコは大きくひとつ伸びをして、ケーキ食べたいなぁぁと喚きながら風呂場に向かった。やれやれといった思いで俺は女を見送る。
 掃除機をかけ終え、すっかり冷えてしまった身体に寝巻きを着る。冷蔵庫からビールを取り出して、テーブルが破壊されたことを思い出し、それを盆に載せた。開いたスペースへミックスナッツの缶を置く。おしぼりも置く。完璧だ。盆を手にいそいそと居間へ戻り、その辺に放り投げられたリモコンを探し出すのには少し手間取ったが、クッションの下からどうにか見つけ出した。
 いよいよだ。俺はようやくという思いとともにどっさりとソファへ収まった。
 そしてその時、勢いよく居間のドアが開く音。
「ああぁぁいいお湯だった!!」
 この女の風呂はいつもあまりに早い。

 バスタオル一枚巻いた姿はいっそ潔いほどに男前で、しかしやはりこの女のこと、空気が読めないコイツのすることはいつもどこか間違った感が否めない。
「・・・どうせ巻くなら上も隠せ」
 腰にバスタオルを巻く女がどこにいる。
「だってあっついのよーー」
 必要な部分も隠しきらないタオルの裾を持ってパタパタと風を送りながら、アンコは俺の方へ歩み寄り、隣へ座った。俺が自分のために用意しておいた缶ビールにさっと手を伸ばし、俺の目の前に突き出す。
「開けて」
 俺は小さく嘆息したが、どうやらそれはプルタブを起こす音にうまく紛れた。
 裸の胸を見られることは気にならないのに、長く伸ばして紫に塗った爪が傷つくことは嫌らしい。喉を鳴らしながら旨そうに麦酒を飲むアンコから目を逸らし、俺がもう一本新しいのを取りにいこうと立ち上がったとき、
「ねぇイビキ」アンコが俺を呼んだ。
「・・・なんだ」今度は、なんだ。
「今から何すんの?」
「サッカー、録っておいたやつを観る」
「ふぅん」
 アンコはそれきり黙ってリモコンを操作しはじめたので、俺はキッチンへ向かった。しかし、戻ってきた俺は己の目を疑うことになる。
 テレビに録画番組として映し出されていたのは、アンコが毎週楽しみに見ているクソつまらない『にゃると』とかいうアニメだった。
「録れてないじゃない」
「お、オマエ・・・、毎週のアニメの予約を解除して、サッカーを予約しておくって云ったじゃないか」
「あー・・・そうだったっけ? ごめーん、忘れちゃった」
 クラリとめまいがした。
 そんな俺を見て、肩を竦め、片の目でぱちりとウインクして寄越すアンコ。
 悔しいことに、こんなときでもちらりとのぞかせた赤い舌を噛む白い歯は眩しかった。
 この表情はたまにしか見せないからいいのだろう?俺は自分に語りかける。そう。一年に一度見られるかどうかのベストマッチと同じぐらいの価値がある。そういうことにしておかないと、ガラステーブルだけでは済まないはずだ。すぐに逆ギレする目の前のオンナをこのクソ忙しいときにわざわざ煽り立てる俺ではない。
「まだ・・・、まだ後半がある・・・」
 力無くリモコンを受け取る俺をアンコは不思議そうに眺めて、「はッハーなんへどホがオもひオいのぉ?わたヒ、わはンなぁい」と、次々ジャイアントコーンを口に放り込みながら嘯いている。コイツはミックスナッツの中からジャイアントコーンだけを選んで食べる女だ。俺は、前からそれだけは許せなかった。
「まんべんなく食え」
「嫌」
 間髪入れない即答に、今度は思い切って隠さずに盛大にため息をついてやった。しかしどこ吹く風。
 俺もこうしている場合ではない。今はサッカーだ。立ったまま、リモコン操作ももどかしく、チャンネルを探した。だが緑のピッチが目に入ったと思った瞬間に、画面は歓喜に唸りを上げるスタンドに切り替わった。
 旗が揺れる。赤が揺れる。なんということだ。たった今、点が入ったのか。
 力を失う膝に任せてソファの端に崩れるように座り、俺は頭を抱えた。そして今度は奪われないうちに缶を開け、いちばん見たかったシーンを見逃した腹立ち流し込むように一息にビールを飲み下す。
「ねぇねぇ・・・イビキぃ」
 カラン、と乾いた音。アンコがまたゴミを――空き缶を床に放ったらしい。俺は無言の抗議を込めて画面を見たまま、返事をせずにいた。
 女がじりじりとにじり寄って来る。
 豊かな胸に比べて、ずいぶんと細い腰をわざとらしくくねらせ、俺に擦り寄る。
 空気読め。もうそっとしておいてくれ。実際のところ、それが俺の本音だった。
「ねぇ、怒ってんの? ごめんねぇ? 私、うっかりしちゃってさ。ね、許して?」
 ぱちんと手を合わせてアンコは頭を下げた。その頭から、まだポタポタとしずくが垂れているのを見逃す俺ではない。
「もういいから、ちゃんと頭を拭いて、服を着てこい」
「んー・・・いいよこのままで」
「よくない」ソファが濡れる。「身体が冷えて風邪でも引いたら」
 ドスン。
 云い終える間もなく、アンコが俺の膝の上に跳び乗ってきた。
「ねぇ・・・お詫びに、って云ってもワンパターンなんだけどさ」

「虐めてあげよっか」

 人の話を聞かないビショビショの女は、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。
 古傷だらけの頭に指を這わせ、そこにチュウと音を立ててキスをする。頬の傷を舐められ、唇を舐められ・・・ついに目の前に見るべきものは見えなくなって、そこにあるのは抱え込まれて押し付けられた裸の胸。
「ホラ、もう・・・アンタがあんまり可愛いからアタシ、興奮しちゃったよ」
 動かずにいる俺を諾ととったのか、アンコは耳元にそう囁いて俺の手を握り、バスタオルの下に導いた。
 握らされたそれは熱く、硬く、いうなればひどく場違いで。
 ひとりで勝手に興奮して、何を云うか。
 俺は今、オマエの乳より他に見たいものがある。
 あるはずなのに俺は、握らされたそれがひくりと脈を打つたびに、丹田と肛門を結ぶ直線のちょうど中間辺りに場違いな違和感を感じている。
「・・・あとでだ」
 宙ぶらりんになりかけた意識を、それでもがなり立てる実況中継がどうにか引き止めてくれた。
「あ、そ」
「じゃあ先に行ってる」と、うるさい足音を立てながらアンコは寝室へと去っていった。俺はその後ろ姿に深くため息をつく。
 本当にどうしようも無い女だ。
 粗暴で、乱雑で、せっかちで、すぐキレる。ひと昔前の言葉で云うならKY、かわいい顔してわがまま放題、奔放で、残酷な。
 その昔、師に愛でられ、終いには捨てられた心と身体は、男と同じモノをおっ立てて憎しみにまみれた色気もクソも無い女。

 画面に刻まれるデジタルは、後半もじきに終わる時間を示していた。
 俺は首をコキコキと鳴らし、残りの麦酒をあおる。食べなかったナッツの缶に蓋をし、リモコンを手に立ち上がった。

「どうせ試合は途中からだった・・・」
 誰に向けるともなく、むなしい云い訳が口からこぼれる。



(了)









(「似合いだ」などと云うやつは拷問に処す)




2007/12/14 memo掲載  2010/02/01worksへサルベージ









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