埃っぽく汚れた腕が、籠を突き出す。
中身は軽くはないのだろう。
編まれたツタは今にも壊れそうにきしんだ音を立てた。
埃よけにかけられた布と籠だけが古く、時間から取り残されている違和感。
受け取って、中身をのぞく。
カカシは座り込んで脚絆を解いている。
充たすもの
枇杷か
そう もらった
自給自足には多いし、悪くなるのがもったいないから持っていけって
夏日。
茅葺きの廃屋。
草いきれが立ち上り、もうすでに庭とは呼べないような庭。
その端に立つ古木に茂る葉の濃い色。
くたびれた声で語られる言葉に浮かぶのは、見たはずの無い光景。
あんまり食わねぇなあ
枇杷、嫌い?
いや、ここ何年か食ってねえってだけの話
食いたくなってわざわざ買いに行くもんでもねぇしよ
まぁ、・・ね
装具を解き、アンダーを脱いで、カカシはすべてを無造作に床に落としてゆく。
風通しの悪い部屋だ。
暮れゆく陽は沈み、四隅から滲む陰が浮かぶ。
明暗は沈黙していた。
そこにあるのは裸の男。
静かな紫煙。
ちいさく、丸く、ぬるい果物。
冷やさないで食ったほうがうまいって云ってたよ
そう言ったカカシの噴き出した汗に濡れた体と、覆うもののなくなった横顔を眺める。
すべての色を吸い込む髪が長く差し込む夕日に照らされて、茜に染まっている。
籠からひとつ掴み取ると、カカシはそれを申し訳程度に水で流し、皮を剥きはじめた。
柱に寄りかかったまま窺う光景は陰鬱で、アスマは煙とともに大きく息をつく。
彩度を失う夕方の部屋は、暗い夢を見るようだ。
時折届く水音だけが、時を動かしている。
何で黙って食ってんだよ
ん ああ、普通にうまい
熟れた実が、それでもすこし青く匂う。
その硬そうな見かけとは裏腹に、ぬるい果汁が唇端からこぼれ細いあごに伝っている。
種に掛けないように用心しているのか、歯を立てて削ぐようにかじった。
少なくなった実をしゃぶりとると、カカシは骸を流しに捨てる。
満足げに唇を舐めたカカシが、ふたたび籠に手を伸ばす。
今度はふたつ掴み取る。
雑な手元が、派手に水がしぶいている。
うまいよコレ 甘いし
腹減ってるからかな
ハイ、おまえも食べる?
振り返って差し出された手から垂れた水が、床を濡らしていることが気になった。
古い木の床に水が落ちる。
床になる前は、たわわな果実を擁する大木だったのかもしれない。
木肌が濡れる。
そのうちのいくらかは、滲みこんでゆく。
灰皿にタバコを押し付けて、アスマはカカシの横に立った。
流しの前でひとり陣取っていた男は相伴のために場所をずれると、すすめを断らなかった無骨な手に水っぽいままの塊を押し付けた。
枇杷ねぇ
ふつうにうまいよ 食ってみなって
(こんなに小さいもんだったか)
(ガキのころ、よく食った)
手のひらにすっぽりと収まるその手触りに、アスマは覚えがあった。
古い晒麻布のように馴染むすべらかさ。
柔らかく、硬く、ぼんやりと白い。汗をかく前の。
あの時に肌を見せたのは、若かった男。
いつか、森の中で ――唇は、赤く染まっていた。
枯れたように穴の開いた場所に指先を掛ける。
爪は短いから思うように引っかからずに、アスマの指はぐずりと少し実を崩した。
育ちきった男が二人もひしめいて、暗がりの水屋はいよいよ狭い。
場所を広げる光も失われたままで、天井に張り付いた蛍光灯はもうだいぶ前から切れている。
ああ、やっぱりうまいわ
隣で小さく呟いた声の朗ら。
それを聞いてアスマもひと口実をかじる。
歯ごたえはない。
口の中に種が転がる。
味覚と嗅覚が思い出す。
甘い果実。
生きるために喰らった過去。
隣にいたのは若い少年だ。
それは古い、古い、古い、記憶。
結構イケるでしょ
まあな でもほんとうに久々だぜ
西瓜なんか種のまわりが甘い気がするけど、枇杷ってそうでもない
硬いとこ渋ィな 贅沢に、うまいとこだけ食えばいいんじゃねぇの
なんかもったいない気がするけどね
ほんの少しの酸と、渋み。
地味な甘さ。
歯を立てて噛もうとする前に果実は解れ、舌を滑って咽喉に落ちていく。
喰らう。触る。屠る。
古い記憶は、その隣で見た光景。
続く、記憶。
口元を拭いながら息をついて、うまかった とカカシは云った。
細く伸びた残照が照らす笑み。
自分も笑う。
うまかった、と口にした。
斜めに咥えたタバコを噛んで揺らし、カカシがボンヤリと待っている。
マッチを擦る。
火を採ろうと寄せる額にかかった銀髪が、アスマの頬を撫でた。
苦く、濃厚な臭気が狭い空間を満たしてゆく。
あれは過去だ。
血腥い身体を寄せて喰らい合った森。
あそこにもまた、湿っぽく、甘いような瘴気が充満していた。
疲れ果てて、それでも獣じみて暴れていた身体。
お互いを差し出しあってやっとの思いで沈静を得たあとに、隣の男はどこから採ってきたのか、アスマの目の前に果実をぶら下げたのだ。
あのときのあれは柘榴、だったが。
そう。前にもおまえは。
カカシがふと、こちらを向いた。
思わず声が出た。
しかし、カカシはそれきり何も尋ねてはこなかった。
思い出すのは。
手繰るほど溢れてくる記憶は、どれもこれも暗い夢。
血。骸。 隣にいた、男。
枇杷ってのはゴミになるねぇ
カカシの言葉に、流しに目をやる。
残骸が小さな山を作っている。
頂を越えて、廃れ始めた甘さが匂う。
鼻先には煙草が煙る。
種類の違うふたつが、混ざって、雑ざり合ってゆく。
ああ なんか腹いっぱい
メシ食わねぇつもりかよ
なんか食うもんあるの
あるわけ無ぇよ 外、行って
もうあんまり食べたくない けど、・・・付き合うよ
おう
それにしても無事で出られるなんてね 珍しい日もあるもんだね
・・・こっちの台詞だ
食欲が満たされて、満足しちゃったんでしょ はは 枇杷すごい
ぬかせ
うまかったよ、枇杷
ああ・・・・まぁ、たまにはな
籠に枇杷。
残りはふたつ。
甘くて苦い。
それは過去。 記憶、果実、続く今。
カカシがアスマに身体を寄せる。
アスマがカカシを引き寄せる。
舌を、唇を、斜に咬ませながら、互いを吸ってふたりは思う。
自分を満足させる味。温度。
こいつは、それを持っている。
やがてふたりは戸を閉じて、夜の中へと出て行くだろう。
熱く濁った部屋の空気はいずれ、取り残された果実を腐す。
熟れて、爛れて、腐るとき、果実はその中に毒を醸して。
そして、頽廃に呑まれていく寸前こそが甘美だと疾うの昔に知ってしまった自分たちはどうなった。
満足を求めるあまり、
その毒に当てられてもとすら思う、今。
だから、繰り返す。
オレも、お前も、きっと、また。
(了)
2007/09/08初出 2008/06/24再掲
(欲を充たすの景 そしてそれは幾度目かの耽溺の始まり)
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