先刻の、すらりと伸びた背筋はどこへ行ったのか。
たたんだ携帯を袂へ入れながら、夜気に凍えきったのっぽの背を屈ませて、小さく、身震いひとつ。
「寒くないですか、サクラ。 あの、運転手さんすいません、エアコンの温度少し上げてください。寒くて。」
「ああ、はい。今夜、急に冷えましたからねぇ・・」
ねえ、昼間はあたたかくて。
そう、だから今の季節は。
ええ、私の周りでも風邪がね。
おだやかに交わされる冗舌を聞きながら、目は窓の外に流れる街路を見ている。
ますます煌びやかになるショーウインドウと夜の街の明かり。
行き交う人の忙しい足並みに、年の終わりも近いと思う。
私の指は、膝に乗せた手提げ袋の紐をくるくると弄んでいた。
サテンの紐がかじかんだ指をすべり、巻きつき、またすべり、解ける。
両の手のひらの上にちょこんと乗りそうなほど小さなそれは、硬質で、頼りないほど軽い。
ふたたび口を噤んだ車内に時折喋りかける無線の声。
ひたりと当てられた視線に気づかないふりをして、私は手元を見つめている。
−−−−−
「また・・・変えたんですか」
「ええ。この香りが好いと思いませんか。」
云った以上もそれ以下も無い、邪気のない返答。
カカシ先生は、私がそれに答えるのを待たずに、
「だって、新しいほうが気持ちいいでしょ?」
そう云い添えた。
ええ、まあ、と曖昧な返事を返す。
一年も経たないうちに畳表を替えるのは、もう半ばこの人の癖のようなもので。
障子の先の闇から流れてくるほんのりと温まった香りが冷たくなった鼻先を撫でていた。
心地のよいぬくもりに肌がゆっくりと弛緩する。
それでも足が動かないのは、板張りから這い上る冷気のせいではないことに、私は気づいている。
頭で考えて言葉を用意しておくのは毎回のことながら易い。
それでも、ためらう。
躊躇する私を促す言葉は、望むものではない。
そしてなぜか私は、その言葉を待っている。
(『今夜はこれで失礼します』)
「寒いですよ、サクラ。早くお入り。」
声は声にならず、のどにわだかまる。
その一方で、先に部屋へ入ったひとの声ははっきりと私を呼んだ。
灯りが点るその下に立ってこちらを見る表情は眩しく、遠くて、窺えない。
柔らかな云いようは、稽古のときと同じ。
嚥下も、反芻するいとまもなく、ただ、小さく頷く。
全く望みは持てないほど、事の成り行きは悪化する。
いくらきつい目で睨めつけても、そんなふうになるのはわかっている。
わかっているのに私はまた、新しい畳をそっと踏んで、障子を閉める。
ずるいから、待っていた。
逃げ道をふさぐ声。
退路を断つ手。
2007/11/28
(委ねる先は正しいものでなくても構わないとさえ思う)
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