05











パラドクス。


今ここに在り、虚でない僕は、あの時の思いに喰い尽くされはしなかった。

しかし、僕は喰い尽くされてしまっている。

故に、喰い尽くされてしまっている僕は今、虚だ。





本当に?




答えは、否。


僕は、今、満たされている。

全て喰い尽くされたあと、消えずに在ったものを抱えて。

在るのは、あの時の思い。


名を変え、同じ強さを持ってここに在る、それ。


















「なに怖い顔してんのよ」


頭上からの不機嫌そうな声と、肩先をぐいと押した行儀の悪すぎる爪先が僕を引き戻す。

さも訝しげに オマエほんと大丈夫なの と覗き込まれ、慌てて頷く。 発声の準備が整わないまま、無言で。

カカシセンパイは、ミネラルウォーターのボトルを片手に、もう片方の手にはグラスをひとつ持っていた。

ぼけっとしてたから勝手に出したよ ってことはその前の呼びかけは耳に入ってなかったんだろう。

ていうかどうせ 水持ってきて とか云ってたんだろう、この人は。



気づけば自分の皿はきれいに空で、ボウルいっぱいに作ったサラダも。

全部僕が喰った・・んだろうな。 も、腹いっぱいだ。そういえば。


ん と渡されたグラスに水をもらいながらも、あの熱帯夜の月明かりを思う。

ぽつぽつと空の皿の並ぶ卓上を照らした蛍光灯がごちゃごちゃと思考を綯い交ぜて、判然としない。

水は薄いグラスの縁ぎりぎりまで満たされて、しかもこれは何処から出したのかいつも使うのじゃなくて引き出物かなんかで貰ったワイングラスだし、ひと口に飲むには多すぎてふた口みくちとごくごく飲んだら、冷蔵庫から出したばかりのそれはひどく冷たく喉を冷やしながら肚の底へと滑り降りた。

まあ、そう云ういろいろをひとことで云ってしまうなら、水はとても旨かった、というべきだろう。

どうやら僕は喉が渇いていたと思い知る。




今日とあの日の境目をまだまだ掻き回すのは、テレビから垂れ流れる煩わしい声、音。







「何も飲まずにあれだけの量を喰うなんて信じらんないねぇ」


さっきと同じ、明らかに呆れた調子で紡がれたその声はしかし決して虚ろではなくて、僕は弾かれたように額を上げた。

目の前で オマエほんと救いようがないよ と薄く笑う。



すべてに巡る赤い血が どくり と泡立つ。

あの時と同じ、感覚。



僕にはずっとそれが出来なかったというのに、その声と笑みは明滅を繰り返す過去の思いをいとも簡単にこの眩しい明るみまで引きずり出した。

気づいて意図的に持ち出したというのか。 まさか。だって本人すら。

気づいているわけがない。  それにもう、この際そんなことはどうでもいい。 



でも。


みずもっかいください とグラスを突き出し、突然に堰を切って溢れた感情をあわてて遮ろうとした。

またしてもなみなみと注がれたそれを一気に飲み干そうとして、盛大に咽る。

呆れた笑い声。 ふきんを取りに行った足音に耳を澄ます。

そして差し出されたその手にふきんごとでも好いから噛み付きたいと思うのは、ほら、マズいって。





僕は、注がれた3杯目を舐めながら慎重に精査した。

胸の内に明らかな輪郭を持って描き出されつつある深遠で単純な僕の思いと、だらしなくソファに仰向けになって捲れた裾から手を突っ込んでやっぱり胃のあたりを撫でながら、逆さまの視線でテレビに興じているセンパイ。






どうやらそれは、たった今流れ込んできたわけではない。

飯と同じように消化されて消えて無くなったはずだった。

でもそれは誤りだ。 

僕を頷かせたのは、渦巻く感情は残り続けて、それをずっと抱えていた自分。


形は、名は違えど、これは。






忌まわしいレッテルを易々と剥がした柔らかな強さ。

僕が生んだ樹幹を縫って跳び、右手の厳づ霊(いかづち)をもって生を屠る後ろ姿。

月に照らされた空虚な貌。

満腹感に弛緩するほっそりとした肢体。

白くねじれていた、肢体。

全ては同じで、それは今、手を伸ばせば届く場所にある。





どっかとソファに座りなおしボトルの水をそのままにぐいと呷った咽喉があまりに白くて、僕は立ち上がった。

唇の端から流れた飲み溢しの雫に惹かれて。

それを拭った指に触りたくて。

じゃあ、メシ喰ったし、オレ帰るわ と僕を見上げた眼は穏やかに笑みを湛えた藍灰で、僕は安堵のあまりセンパイの肩に手を滑らせる。

次の一瞬、紅焔の眼が見開かれて、そこに映り込んだ僕は笑えるほどに情けない、思い詰めたガキみたいな顔。


けれども、もう。




止まるには近づき過ぎていたから。

長く、時間がかかり過ぎたから。

気づいたときには、この思いは膨らみ過ぎていたから。

それに――それこそこんなのはガキみたいな他責だけど――容易く消し去れずに燻っていたこの思いに再び火をつけたのは、他でもないアナタだから。




キスをした。

小さな言い訳を隙間なく並べていろんなものを振り解きながら、すこし強引に唇を重ねた。

キスを続けてもとろけるわけないと思ったから、せめて、持てる正気を総動員してやさしく丁寧に。


「・・っ、・・ンっ、ふ・・」


何か云おうとする口を、押し止めるように舌で塞ぐ。


頼みます何も話さないで。


言葉を、奪う。

呼吸を、奪う。

温度を、奪う。

柔らかい舌を、尖る歯を、薄く縁取り飾る唇を。

すべてが僕のものになるように舌を届かせて、唇で吸いついて、奪ってしまえたらよかった。


しばらくあとには唇は柔らかく解け、その身を捩りもしないから、壊さないようにゆるく抱いていたのについ腕に力が篭る。

応えてくれた舌は甘くて、腰に回された片手の指は慰めるように僕を撫でて、合わせた唇からこぼれ落ちる息は僕と同じように熱くなった。





ずっと。



あの時の冷たく苦い感情は、同じ強さを持ってベクトルを真逆に伸ばしてきた。

今なら、自分はそれを理解する。




あなたの何もかもを、僕のものにしたかったんだ。







(続)














2007/09/15

(溢れて)







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